この夏は,たくさんの事柄が縦横無尽に私を取り巻いて,悩ましい夏となっている。ここ数週間は特に深刻な感情を私にもたらして,本気で転職の準備を始めたのであった。生来の成り行き任せな性格ゆえ,いこかもどろか迷い続けているが,とりあえず私の気持ちに急ブレーキをかけたのは,非常勤講師先での補講授業だったのだ。
要するに,私は授業のない夏休みに加えて,研究も落ち着いて出来ない校務の繁忙さに,すっかり気が滅入っていたのである。久しぶりに教壇に立つ時間が訪れて,やはりこの職業が性に合っているのかも知れないな,と感じられたわけだ。教壇に立つことに喜びを感じるなんて,仕様のない奴だと思われるかも知れないが,私にしてみれば職業的整合性のもとで尽力できる安心感があったのだと思う。
来週は集中講義。4日間連続で「カリキュラムデザイン」の講義なのだから,水を得た魚のごとく,自分なりの授業づくりを展開したいと思う。うまくいかないと,これはこれで落ち込んでしまうけれど‥‥。
とはいえ,講義が始まればすべての問題は解消されるかというと,そうでもない。研究に対する意欲自体は変わりはしないというのに,どんどん遠く離れている現実には煮え切らないものを感じる。短大は研究するところじゃないという風潮は強まる一方だが,周りとのコミュニケーションを意図的に遮断する方途を巧みに使えば,出来ないこともない余地はあるとも言える。公私共に織り交ぜながら,どこで妥協し,何を決断するのかは,なかなか微妙な問題領域なのだ。
たとえば,大胆に教育研究職を辞めて,別の世界にいくことを決意しても,若いうちは収入が減ることを何とも思わないが,次第に苦しく思えてくるのは自明の理である。そういう問題からさえも抜け出したいなら,こんな高コスト社会で生活するのではなく,国外のどこかスローライフな社会で生活することを選択することも視野に入れなくてはならない。
ただ,「梅田望夫・英語で読むITトレンド」というWeb連載記事の「若いウチはあまりモノが見えていない方がいい」という回を読むと,先を見通したような発想で自分を思いとどまらせることが良いことなのかどうなのか,ジレンマも感じる。私たちは知識の絶対量が増えることやそれを高次に扱えることを「プラス」に考える傾向にあるが,それがときに私たちの可能な選択を狭める場合もあることに,ほとんど頓着しない。もっともそれにも頓着始めれば,もっとややこしいのかも知れない。だから私は今までにないほどの迷走した夏を過ごしたのかも知れない。
秋がすぐそこまで。これに関する私自身の思考は,もう少し違う側面も見せながら展開しているのだが,それは教育らくがき本編の方で書き綴るとしよう。なにしろ明日は職場のオープンキャンパス。結局,また校務で土曜出勤なのだ。手当も出ないというのに。
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