J-フォン(現ボーダフォン)が2000年末に初めてデジタルカメラ付きケータイを発売してから5年も経過していないが,巷にあふれるケータイのほとんどがカメラ付きとなり,写メールやムービーメールがやりとりされ,テレビ電話さえも馴染みになりつつある。これは大学生が,入学してから卒業して就職先に慣れた時間に等しいが,変化というものはそういうものなのだろう。
ケータイにデジカメがついていると,いつでも気軽に撮影ができる。無類のカメラ好きである日本人にとっては,使い捨てカメラ以来の大ヒット機能というわけだが,あっちで「パシャ〜」こっちで「パシャ〜」とみんなが片腕突き出して撮影している様子は,使い捨て時代よりマシとはいえ,あまりエレガントではない。
そして,どこでもカメラの使い方を誤ることで引き起こされるのは,盗撮画像漏洩やデジタル万引きといった行為(※盗撮はプライバシー侵害になるが,デジタル万引きは私的利用に限って犯罪行為とはならないようだ)である。一応,そのような行為がし難いように「パシャ〜」とシャッター音が強制的に出るようになっているのだが,騒がしく混雑した街中では,たとえ聞こえてもどうしようもない現実がある。
書店で立読みをしながら,片手でケータイを取り出して一押し「パシャ〜」とやれば,簡単に内容を記録して持ち去ることができる。もちろんこれまでも暗記したり,紙にメモ書きして写す行為はあった。矢野直明は,これらとの違いをデジタル情報として制約のないサイバー空間と繋がっている点にあると指摘する。要するに複写された情報が漏洩し流布されることによって想像以上の損害を引き起こす可能性がある点で,大きく問題視されるわけである。
そして,つい先日,書店で本を漁っていたら,デジタル万引きの現場に遭遇してしまった。
一時期,書店は生き残り策をとして欧米の書店文化を参考に,立読みならぬ座り読みを奨励する店作りを積極的に取り入れたことがあった。用意されたベンチやデスクを使って,どうぞ心ゆくまで商品を吟味してください。そうすることで集客を維持もしくは改善し,少しでも売り上げに繋げようとしたわけだ。中には,喫茶コーナーを併設し,商品を持ち込んでお茶しながら読める書店もある。お手本となった米国バンーズ&ノーブル書店は自社のことを「合衆国で2番目に大きなコーヒー店」と紹介しているくらいだ。
こうなってくると,図書館よろしく自由に本を閲覧して勉強する人が出てくる。名古屋に出来たばかりの旭屋書店には窓際にデスクがあり,ノートを広げて自学自習をしている人の姿さえ見られた。いや感心感心‥‥って,おい,いいのか?
もちろん今回の本題はケータイ電話によるデジタル万引き現場。それは,やはり名古屋の某書店にある保育書棚で起こったこと。保育書棚に隣接する教育書棚を眺めて続けていた私は,あの「パシャ〜」という音を聞いた。「ん?」と思って目線を向ければ,年の頃なら二十歳前後の女性がケータイを片手に保育書を立読みしていた。保育職を目指している学生にも見えるし,あるいはこの四月に就職したばかりの新米さんにも見える。いずれにしても,保育書に載っているイラストか何かをケータイで撮影したのだ。
「え゛!」とあっけにとられる私。その大胆さにこれまたある意味感心するが,保育職養成現場に携わる教員として,また携帯モラルを考え始めようとしていた矢先の出来事だったから,信条的に無視して放置するわけにはいかなかった。書店の商品を自由に閲覧できるような環境や風潮になってしまった昨今,ちょっとくらいいいだろうと思う気持ちが沸いてくるのは想像できなくもないが,よりにもよって保育に関わるだろう人間がそんなことでは嘆かわしい。何としても「傍からの目」の存在を意識させなくては。
しかし,この場合どうすればいいだろうか。一言注意する必要性を認めつつも,実際に傍がアクションを起こすのは,きわめて難しいことである。考えなければならないことはこんなことだ。
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1) タイミング
→現行犯逮捕のように,事態が起こってすぐに傍のアクションを起こせば接触もし易いが,あっけにとられて間があいてしまうと,注意するためとはいえ,接触が困難になってしまう。仕方なく無視することになりかねない。
時間があくと,相手の罪悪感は急速に雲散霧消してしまう。消失してしまってから注意しようものなら,「この人,なに?!」という感情を引っ張り出しかねない。こちらにしてみれば「なに?!とは,なに?!」という理不尽さはあるが,当代,若い人たちの気持ちの移り変わりは目まぐるしいのである。タイミングを逃した注意や指導や働きかけは,その効力をマイナスにする危険さえあるのだ。
2) シチュエーションと方法
→近くとはいえある程度距離がある場合,本人に近づいていく必要がある。接近はなおのこと難しい。特に異性への接近は,誤解を生む余地が発生するだけに,逆手にとられて濡れ衣を着せられる危険さえある。
また,注意する方法も難題だ。真正面からデジタル万引き行為を問題視し,一方的な注意をするのか。本人に行為の不当性を自覚せる問いかけをしながら詰め寄るのか。いずれの場合でも,周囲の他の客にわかるように行なうのか,当事者だけで秘密裏にやりとりを行なうのか,書店側の人間も巻き込んで問題化させるのか。
やり方を間違えると,啓蒙をするどころか,逆効果となったり,逆ギレされて,濡れ衣着させられたり,身体的・精神的な暴力を被ることになるやも知れない。
3) 離脱(切り上げ方)
→注意するなど事態に関わろうとする際に,もっとも大きな懸念事項が,関わりからの離脱である。前項のようにシチュエーションや方法の選択は様々であるが,始め方を考えると共に物事の終り方も重要なのである。そうでないと,他人の問題に自分の時間やエネルギーを余分に使うことになりかねない。それが面倒だから,みんな見て見ぬふりをするのである。
いかに後腐れ無く,スマートに事態を済ませられるか。相手とのわだかまりがゼロということはあり得ないが,お互いに必要のない余計な摩擦をかけて本質を見失うこともしたくない。うまく関わって離脱する方法を会得するのは大事だ。
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斯様な要素をクリアした上でアクションしなければならないとしたら,どうしても注意する行為自体が億劫になってしまう。情報モラルや携帯モラルを教育の中で醸成していこうという予防的な努力は必要であるが,一方で「社会の目」「傍の目」である私たち自身の態度が,注意することを億劫がり,再発防止に力を注がないようなものであったとしたら,穴の空いたバケツに水を注ぐことと同じ状態ではないだろうか。
まあ,遠回しに「大人の体たらくを嘆く」論を繰り返しているわけであるが,少しでも自分なりの態度や「事態に遭遇した場合の身のこなし方」について蓄積することが大事なのだと思う。
ところで,デジタル万引きに遭遇した私がとった行動はどうだったのか? 偉そうなことを書いているが,それなりの行動をとることが出来たのであろうか。誰もが気になる点だろう。あまり良い参考にも見本にもならないが,一事例として。
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実は,タイミングをすっかり逃してしまった時点で,接触することが難しく,注意できずに終わってしまうことを覚悟していた。タイミングを逃してしまった以上,今度は時間をかけて接近することにした。教育書棚から保育書棚の近くへ,ごく普通に書棚を眺めて本を物色している空気のまま,ゆっくりと移動する。保育書棚に到達する前に,保育書棚と向かい合う反対側の書棚を物色しながら,彼女とは背中合わせにずれた位置関係で接近することになった。くるっと向きを変えれば,斜め後方から声をかけて注意できる態勢にはなったのである。
しかし,この時点でも,声をかけるタイミングを持たない限り,注意する行動には移れない。やはり注意できずに終わるのかと心中は苦い気分で一杯だった。現実はそんなものだ。正義漢ぶってみても,うまくはいかないのである。
ところが,もう一度その音は聞こえてきたのである。「パシャ〜」っと。私は,ほんの少しだけ時間をおいた。今度は背中合わせに接近している分だけ,こちらの気持ちにも余裕があった。彼女だって私の存在に気がついた上での行動だ。若干の間をあけても注意が出来るシチュエーションだった。
私は,何気なく保育書棚を向き,撮影後に携帯を操作している彼女に近づいて耳打ちをしたのだ。「警察に突き出された人もいるから,気をつけて」。彼女はこちらに目線を向けて怪訝な表情を浮かべながらも,本当に小さく相づちを打った(と思う)。私はそれだけ言って相づちを確認し,そのまま別の書棚に移動して本の物色を続けた。
それ以上の接触は試みなかったし,再び彼女の近くに寄ることもしなかった。遠巻きに視界に入ったら気にする程度に留めた。結果として,彼女はしばらく保育書棚にとどまっていたが,その後「パシャ〜」とすることは無かったように思う。監視していたわけではないので,実際のところわからない。最後,レジで支払をしていた彼女を偶然目撃するが,それきりである。
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私の事例が妥当なのかどうなのかは,いろんな考えが出来ると思う。結果的にはデジタル万引き行為を見逃してしまったのだろうし,「警察に突き出された人がいる」というフィクションを持ち出したことも批判の的となろう。
ただ,放り込まれた状況を私なりの立場で判断した上での「致し方ない」行動結果であることも事実。場合によっては,そのまま完全に見逃してしまう結果にもなり得ただろうし,あるいはその気があったなら書店側に突き出すことも出来た。この事態そのものを封印し,秘密にしておけば,私の行動の妥当性なるものを云々することからさえ逃げ出すことも出来るだろう。
典型的なモラルジレンマに,私自身が陥ってしまった感もある。とにかく,私たちがデジタル万引きに限らず違法行為や不当行為に遭遇した場合の行動原則は,意外なほど弱々しい土台のもとに成り立っているのだということを実感した。
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