6月18,19日の両日,東京学芸大学にてカリキュラム学会が行なわれた。私も学会発表申込みをしたので,準備をし,発表に臨んだ。自己評価は,40点だと思う。半分もとれてない。プレゼンは,研究の位置づけを丁寧に説明しようという気持ちが強すぎて前置きが長くなってしまったし,発表内容も欲張りすぎて傍目からは情報の羅列になってしまった。前もってわかっていたような初歩的失敗をしたので,半分の点数もあげられない。職業研究者がこういうことやってはいけない(悪い見本)。
先輩研究者の先生方から,暖かくも厳しいコメントをいただいた。「この内容だと,本3冊書ける」という言葉は,内容を絞りきれてないことを指摘している。「大風呂敷を広げすぎて,勉強したことを並べましたで終わっている」というのは,返す言葉がありません。
ただ,いろいろな不満のある発表だったけれども,内容は興味深いといわれたし,「もったいない」という言葉ももらった。もっと削ぎ落とした形で提示できる切り口を,はやく何かと結びつけて見つけ出さないといけない。来年以降は,それが第一課題だ。
今回の学会は,私にとって少し違ったものだった。いろんな先生方に名前を覚えてもらい始めたように思う。もちろんずっと前から声をかけてくださる方々はたくさんいたけれど,1年に1回くらいしか会わない先生方にも,ちょっと面識を持ってもらえたような感じなのだ。カリキュラム学会に所属して10年くらいになる。時間かかったなぁ‥‥。今度は研究成果で認めてもらえるように,改めて頑張らないといけない。
研究上は厳しく指導していただくことは当然として,それだけではなく,先輩先生方はとても温かい目で応援してくださる。そのことにとても感謝している。普段ひとりで仕事や勉強をしていると,とても寂しくなるし,くじけそうにもなるし,研究をあきらめて教育に専念でもしたらどうかという誘惑に襲われることもある。そんなときには,いつも声をかけてくれる先輩先生方のことを思う。それが自分を助けてくれることが多い。こちらから連絡しないでいつも失礼ばかりしているが,先輩先生方のことは勝手に思い出して心の支えにしている。
ときに研究や議論上,意見の対立や批判的な態度,特に世代論を持ち出すと上の世代の皆さんを悪者扱いしやすくなるけれども,それはやはり相手の胸を借りているからこそできるのだと思っている。お読みの皆さんにも,それだけは理解して欲しい。
武蔵小金井駅。帰り際に二人の先生方とご挨拶をした。進歩のない後輩に「りんさん,時間十分とれずに申し訳ないね」「りん君,あきらめずに発表は続けようね」と笑顔で声をかけてくださった。一つひとつの想いに恩返しできるよう,何かの形で成果を出したり,貢献できればと思う。
ご活躍の様子、何よりと思います。学会発表、これからも教育学に風穴を開けるべく、学生時代と変わらぬ怪気炎を挙げ続けて下さい。
昨日から盛んに報道されている義務教育に関するアンケート結果の、特に「総合的な学習」をめぐる結果に、正直かなりの幻滅を感じています。それは、中学教師の「体たらく」を数字で目の当たりにしたからでしょう。
教師が『ずく』を出さず魅力のない題材をやる→生徒も面白くもなく意義も見出せないやじる→成長した姿が見せられない・見出せない→芳しくない調査結果になる→「総合的な学習」はいらない→教育改革へ…何とも情けない結果です。「中学教師は専門バカ(注:みんなが専門バカと言えるほど優れているのであれば、時間が少なくとも学力低下はないのでは?という問いは黙殺されます)で、総合的な教育技術を持っていない」ということを自己申告したような調査結果ですからね…。
「YOUさたは大学の講義で学んだことを直接に生かし、教職に役立つものなのかか?」という命題と、「総合的な学習は、教科で学んだことを横断的・総合的に生かせるものなのか?」という命題は、極めて似通ったものを持っています。この辺も、教育改革を考えていく上で、興味深い論点を提示してくれると思うのですが。
りんさん、研究をしていただけませんか?
投稿情報: 田中清一 | 2005年6 月19日 (日) 22:12