1998/12/26 Sat.
[知ること]((情報の存在性))
量子力学の世界にはEPRパラドックスという問題が存在している。どんな問題かを説明するかは厄介なので省略するが、量子の世界における情報伝達の不可思議を扱った問題だといえる。
ところで、私たち教育を考える人間はしばしば「知ること」について思いを巡らす。知識論なんて議論もあるし、認知心理学という賑やかな研究分野もあって追いかけきれないが、もっと素朴に「知る」ということを考えてみると、先の量子力学のEPRパラドックスにも似た不思議な世界と妙に共通する感覚にとらわれる。
たとえばこんな場面を思い描いてみてほしい。ある人が自分との約束を守らなかった。こちらとしては不快な気分になっている。ところが後で事情を聞くとどうにも仕方のない理由があったことを知り、不快感が和らいだという経験。私たちの心理というのは、情報を「知っている」か「知らない」かで瞬間的に変化してしまことは、たぶん皆さんも経験があるはずである。
知っておけばよかったこと、それと同時に、知らなければよかったこと、そのようなものが世の中に混在し、私たちの生活を様々に彩る。それにしても何かを知ってしまったために起こりうる急激な変化というものは、かくも不思議な現象である。本当のところ「知る」とは何者なのだろうか。ある情報の存在を認めることが、自己の存在を大転換させる、そのダイナミックな働きに私たちは身を任せている。
2006/06/05
「教育らくがき」という駄文群の中には,わりと自分でも気に入っているものがある。ベストセレクションのようなものをするのは,これまた,もう少し後になるが,とりあえず何かの機会にプレイバックをしてみよう。
今回,再掲した駄文は1998年のものだが,わりといつも頭の片隅にあって,とても気に入っている駄文の一つである。文自体の出来というよりも,テーマが好きなのである。「知ること」は奥深い。今日逮捕された誰かは「聞いちゃってるんですよね」と告白したが,聞いたことが知ったことになるのか,知ったこととは行為との間でどんな関係があるのか,そんなことを考え始めれば切りがない。
そもそも,駄文のネタ元は『日経サイエンス』誌の量子力学の記事だった。それ以前にNHKスペシャルの名作「アインシュタイン・ロマン」の影響を強く受けていたこともある。量子論の描く不思議な世界について考えながら,「知ること」を考えてみようと書いた駄文である。説明を端折った部分を書き起こせば,それはそれでとても興味深い駄文になると思うが,それもまた次回以降の宿題である。
ちょうど伝統ある科学誌『ニュートン』が創刊300号記念で「量子論」特集を組んでいる。かなり力の入った特集のようなので,興味のある方はぜひご覧いただきたい。最近,科学誌のジャンルも少しずつ新しい雑誌も登場して復活しつつあるようだ。「知ること」に興味を持つ子ども達が増えることを期待したい。
#私たちにとって今日はもう一つ,驚くべきニュースを「知ること」となった。それは「知ること」で胸が痛むことでもある。リテラシーの醸成とは,「知ること」の苦しさを乗り越える過程でもあるのかなと思う。だとしたら,科学だけでなく,私たちは信教について何かしらの態度を示さなくてはならないかもしれない。そんな気がする。
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