モヤッとした日々を過ごす。終戦の日前後は,毎年疎いなりに歴史のことを気にするのだが,今年は世間の空気に乗っかって歴史の本を眺めている。
劉・三谷・楊『国境を越える歴史認識 日中対話の試み』(東京大学出版会2006.5/2800円+税)には興味を抱いた。日中韓の歴史認識に関する対話や共同研究の試みは,国や民間のいろんなグループが展開している。その成果も文献として上梓されているが,どれも芳しい受け止められ方をしていない。その中で,本書が提供するのは,成果というよりも過程の提示である。21世紀に入り,各国の歴史研究環境も前進し,一次資料の開示も進みつつある。一方で,当時を生きてなお存命している人たちも少なくなりつつある。まさにその時期に,歴史から得た内容をもって対話するというよりも,歴史に対する方法を土台とした理性的な対話によって,互いの歴史認識を高めていこうとするスタンスが,本書から感じられる(ってまだ読めてないんだけど…)。
教育内容とは何なのか。これに関する文献資料を見た記憶がある。単なる「内容」と「教育内容」に関して,原理的な考察をしたものだった。教育内容として使用する意図のもと事前に用意する内容以外にも,そのような意図のない内容も文脈に組み入れることによって教育内容たる場合があることを,あれこれ論じていた(と思う)。誰あろう藤岡信勝氏が書いた論考だ。最近はすっかり歴史教科書の人になっていらっしゃるけれど。
最近,シリアスゲームに関する最新動向を聞いたのだが,シリアスゲームの定義はまさに文脈依存型のものだった。何か特定の形式や条件を満たしたものがシリアスゲームというわけではなく,想定している文脈にゲームが当てはめられれば,それをシリアスゲームと呼び得るようなのだ。
だから,「内容」や「対象」よりも,「方法」あるいは「視角」のようなものが重要なのかと感ずる。カリキュラム研究においても,この予感はかなり以前からあった。少しずれるが「メディアはメッセージ」という有名なマクルーハンの言葉も,どこかで通底している気もする。
ナントカ劇場のおかげで,日本のマスコミの滑稽な正体がかなり明るみになった。(さらにずれるとは思うが)マジックミラー越しに置かれた鏡を見ているようなものだった。つまり,日本人が見ていたもの(メッセージ)は,マスコミ(メディア)そのものだったし,それはマジックミラー越しの私たち自身でもあったわけだ(そういうニュアンス)。
それゆえに私たちが足りなかったのは,方法と視角のレパートリーではなかったか。一人一人の方法と視角そのものもなかったかも知れないし,それを発揮する場もなかったかも知れないし,発揮すべき場があった場合には発揮すべきものがなかったのかも知れない。だから諸外国の人々には,何を考えているのか分からなかったともいえる。
若い世代にとって,歴史認識方法や視角に関するよいロールプレイモデルが提示されていなかったことは,さらに不透明度を上げたのではないかと思う。日本には歴史という知的プラットフォームを使って世代間のコミュニケーションや関係を構築する機会がほとんどないように思う。私が歴史に疎いせいでそう思うのかも知れないが。
歴史の文脈でそう考えたとき,別に歴史のことだけに限らず,学校教育で知識を学ぶのはなぜなのか?という問い掛けに対して,コミュニケーションにおける共通のプラットフォームづくりであると答えることは意味あることではないかと思っている。プラットフォームづくりを保証するのが「カリキュラム」の仕事の一つである。
この頃思うのだ,当時は歴史がほとんど分かってなかったのに楽しかった「クイズ・面白ゼミナール」の歴史クイズを,歴史が少し見えてきた今,もう一度見てみたいなぁと。
東京では落雷停電,事故大停電など大変みたいだったが,名古屋にいたので体験できず。そのあと東京に戻ってみたが,特に変化なし。台風もたくさんやってきている(「台風前線」が面白い)。さて,宿題を片づけなくては…。
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