映画「不都合な真実」(原題:An Inconvenient Truth )が秋に公開される。地球温暖化の深刻な現実を扱ったこの映画自体は,また時期が来たらご紹介したいとは思う。とりあえずは予告編などで興味を持っていただきたい。
今回ご紹介したいのは,この映画のプロモーションのため,出演者であるアル・ゴア元副大統領がサタデー・ナイト・ライブ(SNL)に出演していたこと。その映像がアル・ゴア氏のブログに掲載されている。しゃべっていることは何度か聞いてジワジワと分かってくるので,私にはスルメのように美味しい映像である。
SNLは米国の長寿コメディ・バラエティ生番組である。私たちが知るコメディ系映画俳優の何人もこの番組の出身者で,出演者を変えながら番組自体は一つの伝統的な「枠」(「わく」)として残り続けているわけである。
私自身SNL大好きなのだが,残念ながらビデオを借りて見るとかはしていない程度の浅学ファンである。それでもSNLが好きなのは,この番組が日本も含めた他のバラエティ番組に大きな影響を与えていて,視聴者としてその空気を間接的に味わっていることもある。それに何かの機会にSNLを見るたび,その何だか分からない楽しげな番組の雰囲気が「いまは眉をひそめる時間じゃない,楽しむ時間だぜ」とはっきりメッセージを送っていて,見ていて気持ちいいのである(つまり彼ら彼女らはショウを見せるエンターテイナーに徹している)。
そんなわけで,かつて大統領を目指し,いまは熱心な環境問題の啓蒙家であるアル・ゴア氏さえ,この番組に登場し,過激なパロディを演じても,その枠の中なら「ショウほど楽しいものはない」と許せてしまうのである。ちなみにゴア氏ご本人も,もともと冗談好きみたいだ。映画予告編でもそうした一面が垣間見られる。
まあ,日本には本当の政治をショウにしちゃった強者がいるので,あえて日本で同じことをする必要はないと思う。その辺,日本人はいろんな枠を壊しすぎちゃったのかなと思う。おかげで得たものもあれば,失ったものも多いけれど。
NHK「英語でしゃべらナイト」の京都スペシャルを見て思ったのは,日本人から「粋」(「いき」)が無くなっていること。確かに京都と他都市じゃ文化が違うのかも知れないが,それでも大なり小なり日本文化には「粋」があったと思うのだ(だから番組は「Do Kyoto」というキャッチフレーズで締めていた)。
というわけで日本は「枠を壊して粋が無くなる」という奇麗な結論が出たところで,お開き。
…のはずが,追記: 日本のバラエティ番組は(N.M.を筆頭とするジャニタレに占拠されて以来の)質の不安定状況にあるということは周知の事実だが,一方で,NHK「謎のホームページ サラリーマンNEO」のような番組が生き残っているという点,まだ救われるし,望みがあるように思う。面白さの規準は人それぞれなので,具体的な番組の好き嫌いはさておくとしても,それらの違いについては意識的でありたいと思う。
なのに,これまた余計なことを書くのだが,N.M.が司会した27時間テレビではっきり分かったのだが,あれは確実に人々の易きに流れる習性に甘えた番組である。ジャニ系の中にもわきまえているタレントはいるから,彼らを一括はしたくないが,ジャニタレの特にN.M.が国民的タレントだなんて恥ずかしくて仕方がない。彼自身の品のなさは演技でいくらでもカバーしていただければいいのだが,問題は彼を品のないままにしている番組制作環境とそれを支えている視聴者意識である。(だから彼はマジックミラー越しに見える鏡に映った私たちなのである。もっともこの比喩はマジックミラーのこちら側が見えるはずもないのでおかしいのだけど…。マジックミラーのつもりがただの透明ガラスだった,という風に考えて欲しい。)
正直なところ,こういうレベルの話は,教育議論の次元で論じられることはほとんどない。リテラシー教育の題材としても,取り上げられる可能性の少ない題材だろう。何しろ日本の(質の悪い方の)バラエティは,視聴者と番組とのズブズブなところでつながって共犯関係にあるから,教育を出発させるためにはそこを素早く断ち切る工夫か前提がないと難しいからだ。
論じるに値する笑いと論じるに値しない笑い。そうやって考えていくと,日本の(質の悪い方の)笑いは,個人に縛られた私事に帰してしまって,結局は個人攻撃的な話にしかならないのである。でなければ,それを受容している側の問題ということになって,それを教育内容として扱うとなれば,国語から道徳から日頃の子ども指導まで含めて大掛かりな連関性を確保しておかないと「話はそこで終わり」という局所的な満足感で終わる授業になってしまう。
アル・ゴア氏がSNLに登場したのは映画の宣伝のためである。けれども,それをきっかけにして映画の提起するメッセージに関心を持ってもらうことが本当のねらいのはずである。そういう類いのタイアップ・プロモーション企画なら,日本のバラエティ番組や,さっきからコケにしている人物の出ている番組だってやっている。それと何が違うのか。と指摘する方もいるだろう。確かに形式的には同じ手法が日本にだってある。
そうなると,実は「枠」の問題に至るのである。この場合,番組制作環境という枠から始まってテレビ放送とか人々の知的文化環境の現状とか,そういう今日的な「枠」を台紙にして座標をとるわけだ。すると同じことをしていても,全然位置づけが違ってくるし,ゆえに質的な違いも出てしまうわけである。
「くだらないこと」に質的な差があっても,結局は「くだらないこと」に変わりないのかも知れない。でも,それを誰がどんな文脈でどう演じていくのかということを大きな座標の中で照らしてみたときに,何をかを感じさせる場合もあるのだということ。その鳥瞰的な視点を意識させるのも「カリキュラム論」のお仕事である,と再度奇麗にまとめてみた。だいぶ無理があるけれど。
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