明日になれば師走。お坊さんに限らず,誰もが慌ただしく走り回る季節となった。そして誰もが承知しているはずなのだが,その走りの速さは時代とともに尋常ではなくなっている。勢い止まらず年末年始も休めている気がしない。
ここ数週間は,仕事もそうだし,人と会ったりし,いろんな話を聞かせてもらう。実のところ,脳天気に喜べるニュースは少なく,身近な皆さんのプライベートで結婚や出産があったという話ぐらい。私が関わっている教育界隈の話題には,暗いトーンのものしか見あたらない。
ただ,最大の幸運は,この状況をよく思っておらず,「何とかしよう」とそれぞれに頑張っている若手の人たちが,たくさんいるという事実である。そのスタンスもアプローチも様々で,活躍している場もバラバラだけれども。
そういう人たちがつながれば,大きなムーブメントを起こせるのではないか。単純素朴に考えればそうなるし,インターネットがその媒介を果たすというのも,無くはないシナリオである。
けれども,この数日人々に会い続けて思ったことは,「直接会わなければならない」ということだった。たとえ言葉交わした量が少なくとも,途中で眠たくて目を閉じていたとしても,全然関係ない話題で盛り上がったとしても,やはり時間と場を共有することには意味があると考える。
そうして初めて,私たちは相手の発言の真意や自分の立ち位置の見定めが可能になるのではないだろうか。
悲しいことに,いま人と時間と場を共有するための余白のようなものがどんどん失われたり,削られている。そのせいで,嫉妬の論理による他者攻撃は増しているし,世代間の格差や断絶によって社会のほとんどの部分で機能不全が生じてしまっているように思える。
困窮していて一歩も動けないという現状は,今に始まった悩みではない。なるべく早いタイミングで事態が打開されることを願って努力している人たちの存在が,きっと救いになるはずである。そうやって休みもなく活躍されている先輩諸氏は確実にいるのだから。
だとしても,そのような人たちが活躍しやすいように余白を認め,あえて見て見ぬふりをする曖昧さがもっと必要だ。そのことは逆に,何を達成すべきかという目標にフォーカス(焦点化)していく必要があることを意味している。
私たちは「気に入らない」とか「腹が立つ」とかいう理由でクレームをつける前に,「目標に照らして…」という条件文を思考に加えられるよう努力が求められるし,時に沈黙も必要であるかも知れない。
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