能鑑賞に誘われた。テレビのチャネルを変える過程でチラッと見るのを除けば,能を見た経験はなかったので,今回能に接するよいチャンスをもらったことになる。
少々遅刻をしてたどり着いた国立能楽堂は千駄ケ谷駅の近くにある。本日の演目は狂言「飛越」と能「須磨源氏」だそうだ。
能というと独特なテンポでセリフをまわしていくうえに,眠たくなるというイメージがある。実際,途中何度か意識を失った。いやはや,昔の人はあれだけ間延びしたようなセリフを聞いて内容がわかったんだろうか。
けれども、実は能は途中で眠ってもよいのだという。もともとこの世とあの世が混ざり合うような内容のもので,あの独自な調子も,実は観ている者をそうした世の往復へ誘うためだという(私の理解が正しければ…)。
そんなわけで,存分にトリップしながら能を楽しませていただいた。どちらかというと途中から観た狂言の方が面白そうではあった。楽器も何もないセリフだけの短い演目である分,その調子が面白く感じられた。
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今回の能鑑賞は海外からの来賓の観光に便乗したもの。英国ブライトン大学のAvril Loveless教授が,札幌で行われる日本教育工学会研究会で特別講演をするために来日している。
以前からいろんな先生方が「アブリルさん」「アブリルさん」とブログに書いたり口にしていたので,そういう方がいらっしゃるのはわかっていたが,英国まで出かけた1月にも会うことはなかったので,今回初めてお会いすることになった。とてもほっそりとして優しそうな英国女性。私の拙い英語にも笑顔で接してくださった。
今回の観光や講演の通訳には関西大学大学院の岸さんが活躍されている。英語も堪能だが,「アラビア語の通訳ならもっとできます」という強者である。学会などでよくお会いするようになったが,その才能の欠片でもわけて欲しいと思う。
能の「序破急」の構成について岸さんが英語でいろいろ説明するのに難儀する中で,「破」の部分に対するアブリルさんの理解がパッと明るくなったのは面白い状況だった。同じワールドにおける異なるディメンションの混在がもたらす「破」の状況設定について,日本の映画を理解するのにも興味深い解釈を得たみたいだった。
さまざまな言語におけるライティングの論旨展開について,英語は直線で日本語は螺旋だという有名な対比があるが,それにも通じるものがあるのだろう。
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能は長さが約80分で,物語は大変シンプルである。シンプルゆえに意識は遠のくが,その遠のきこそに能の神髄があり,そして演目が終わり舞台から演者が誰もいなくなった「無」によって完結するところなどは,「シンプル」という片仮名語を使うことを拒む,むしろ「洗練」された日本芸能文化の極みを見るべきなのだろう。
また機会があったら行きたいと思った。
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