蒸し暑い七月の終わり,集中講義を受講している。「協調的知識統合論」という講義で,学習科学の世界的な権威である三宅なほみ先生が担当されている。
しかも授業は東京大学駒場キャンパスにある新しい学習空間「駒場アクティブラーニングスタジオ」(略称:KALS)で行なわれている。私にとって初めての駒場キャンパス授業である。いろんな意味で新鮮な気分で通っている。
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講義は「熟達化とは」をテーマにしており,熟達化に関する研究知見をジグソーメソッドによって協調的に学んでいく授業である。先生が説明する時間は限られており,ほとんどは私たち受講生が資料を読み,それを受講生同士で共有する作業を通して,知識統合していく過程に時間が割かれている。
これが気がつくとあっという間に時間が過ぎてしまう。しかも参考資料を読んで理解したうえで説明する作業が続くので,一段落した頃には脳みそも身体もぐったりしている。いやはや,こういうタイプの集中講義は初めての経験かも知れない。
ジグソーメソッド自体は目新しくはない。昔から知られた方法であるし,私自身,教育学講義などで紹介したりするお馴染みの方法である。しかし,実際にジグソーメソッドを使う機会というのは,意外と無い。普通の授業の時間で収まりきる方法でないことも一因だろう。だからこそ,朝から夕刻までの集中講義などは,絶好の適用機会というわけだ。
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けれども,このジグソーメソッドをなかなか使わないもう一つ要因は,効果的に用いることができるのか,教員側に掴みにくいところにある。
一つには,用意した資料からジグソー的な活動がうまく成立するのか不安なこと。二つ目には,ジグソーに参加する学生の能力に左右される不安があること。三つ目には,最終的に期待した理解に到達することができるのかということ。四つ目には,評価が難しいことなどがある。
端から見た活動の様子は,教員側が資料を配って,あとは学生が議論して,その結果を発表するといった風である。教員は議論しているところを見守っているくらいで,あとはじっと待つしかない。「なんだ教員は楽じゃん」と思うかも知れないが,長い時間を待ち続けて,しかも授業の行方や結果は不安だらけという状況は,なかなか耐え難いものがある。そんなこんなで,ジグソーメソッドを実際に導入するのは,躊躇しがちなのであった。
ところが,実際に受講生の立場で経験してみると,これはこれでなかなか面白いのである。疲れるけれども,受講生同士で協調する過程で,繰り返し重複することも多いが,それでも新しい見方や考え方に接することもできるからである。その上,気がついたら時間が経過しているというのだから,長い長い集中講義に対する心理的な抵抗感も低くなっている。
おお,これは使える。というわけで,わたくし,夏の出稼ぎ非常勤講師は,自分が受講している集中講義が終わった翌日から,自分の担当する集中講義があるので,さっそくこのメソッドを使おうと心に決めたのであった。
え?教える側が楽できることに気がついたからじゃないかって? ま,まさか,馬鹿にしてもらっちゃ,こ困るなぁ。新しい知見を活用するのは教員として当然の責務。自分の抱えている課題や仕事が忙しくてあんまり準備できなかったから,ネタをパクっちゃおうって魂胆なんか全然無いんだから…,そうじゃ無いんだから…,そんなんじゃ無いって…,無いって言ってるのに…,違うんだもん…。
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さて,熟達化というテーマは,長いこと論じられつつも,いまだホットなのだという。昨年には,ケンブリッジ・ハンドブック・シリーズの一つとして『Expertise and Expert Performance』が上梓されている。分厚い本には,「加齢と熟達化」なんて章もあって,多方面から熟達化について論じたものとなっている。後期のゼミで購読する予定。
集中講義は,さすがに全てを扱えないので,そこから三宅先生なりに授業構成を考慮して選んだ代表的な理論や実験研究を扱っている。故波多野誼余夫による定型的塾達と適応的熟達であるとか,状況論的な学習などを含んでいる。個々の理論はお馴染みだが,それらを組み合わせて考えるとどうなるのか,複数の人間で議論して考えると,また違った学びを生成させるのである。
理想的には,このような協調的知識統合活動が学校現場の教員間で展開されることが期待される。もちろん,結構負荷の高い活動ではあるので,いつでも展開してなきゃいけないというわけではない。
けれども,たまに展開しようと思ってできることでもないのが,なかなか難しいところだ。教育の専門家として,協調的知識統合が今後の教師に重要な能力であるとすれば,そもそも教師には何が必要になるのか。何はなくとも,何度も体験してみることこそ大事なのだと思う。そのためのファシリテイターの存在が当分は重要視されるだろう。
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