文部科学省のメールマガジン「初中教育ニュース」の第63号が発行された。その中のコラム「常盤の“とっておき!"」が言語力育成協力者会議について触れていたので,ご紹介したい。
公的なメールマガジンの文章だから引用は問題ないと思うので,本来なら全文載せるのが礼儀と思うが,申し訳ない,必要な部分だけコピーさせていただく。
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(前略)
会議では、協力者の先生から次の発言がありました。
今の子どもたちには、「自分の存在に確信を持つこと」が重要なのだ。その
ために言語力を育てる必要があるのだというコメントです。
私は、思わず我が手でひざを打ちました。
この会議は言語力の会であります。しかし、言語力を伸ばすこと自体が最終目
的ではないのです。他者とのかかわりが薄くなっている今日、私たちは、子ど
もたちを孤立から救い自立への道を歩ませなければならないのです。子どもた
ちが言語を通して他者との関係性の中に自己を見つめること。言語力の育成を
通じて、生きる力、それも、社会とともに生きる力を育てることが大目的なの
ではないでしょうか。
言葉は、知識や情報を獲得する、考える、感じる、表現するなどの機能を担
っています。学習、生活の基盤となるものです。言語力という基盤をしっかり
と固めることが、子どもたちの力を大きく伸ばし、わが国の教育を大きく飛躍
させることにつながっていくものと確信します。
〔初等中等教育企画課長 常盤 豊〕
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こうした意味で言語力を重視するというのであれば,それは一つの立派なアプローチとして認められていいと思う。とすれば問題は,このメッセージが届くように幾重もの配慮が必要だということである。
正直なところ,協力者会議で議論される面々と現場を担う先生方とでは,そもそも「言語」や「言語力」に対する認識や見解のスタート地点が異なっている。たとえば物事を思想的,哲学的に捉えるという態度にも,かなりの温度差があるだろう。それを乗り越える(あるいは潜り抜ける)術を考えなければならないのではないだろうか。
端的に言えば,「どのように評価するのか」という疑問に対して,納得のいく,もしくは説得的な説明を返すことが出来るのかどうか。その辺に,協力者会議やそれに関わる人々の力量が問われているのだと思う。
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