海外視察へ出かけるデメリットがあるとすれば「海外かぶれ」になりがちなこと。国の成り立ちも思想も全く異なる国の社会を表面的に眺めたら,そりゃ隣の花は赤く見えてしまうものである。
海外渡航を記録した駄文を読み返すたび,その自分の浅はかさを痛感するのだ。だから罰として,そのまま恥をさらしておくことも教育らくがきの役目である。ここをお読みの皆さんは,私がどんなに浅はかか先刻ご承知だと思うけれど,とにかく常に「ほんとか?」と疑いながら,こっそりお楽しみいただければと思う。まあ,知ったかぶりして情報提供するのもこのサイトの役目であるから。
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今年は日豪が通商を開始してから50年にあたる年だという。オーストラリアといえば海と大地の国みたいなイメージがあり,観光はもちろんワーキングホリデーに出かける人も多いといった印象が強い。日本の英会話学校の外国人講師にはオーストラリア人が多いということもなんとなく聞いたことがある。
そんな豪州は,日本の約20倍という国土に,約2000万人の人口というバランスの国である。国土の8割ほどが乾燥地帯だが,資源や食糧は豊富なことと自国の人口が少ないことから,多くを海外輸出に回せるらしい。
というわけで,日本や中国など資源を必要としている国にとって,豪州は頼りになる通商相手国なのである。いま日豪間では,自由貿易協定や経済連携協定の締結を目指しており,さらに安全保障面での関係強化についても共同声明を計画している。豪州は日本やアジアにとって,ますます重要な国になるというわけだ。
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豪州は深刻な教員不足に悩んでいる。少なくとも西豪州の教育訓練省は,広報紙「SCHOOL MATTERS」の最新号に掲載されたA/Director General(肩書きの全体像を確認しようと思ったんだが,事務局系の組織図が見つけられなかったので「A/」の意味が不確かである。Acting Director Generalではないかと推察される。差し詰め「執行統括教育長」みたいな感じか…)の挨拶文で,教員定員を埋められなかったことが述べられている。そんな状況の中,子ども達が新学期をスムーズに始められるよう現場の先生方が尽力したことに感銘したとある。
先日の駄文にも書いたように,西豪州は喉から手が出るほど教員が欲しい。現地通訳として私たちを助けてくれた日本人のヤスミさんも,学校で日本語を教えている先生である。とにかくなり手が少なくて困っているらしい。シドニーやメルボルンといった東側で人口の集中している街は状況が異なるのかも知れない。州をまたげば違う現実があることも珍しくはないから。
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実はオーストラリアに対してもう一つ抱いていたイメージに「遠隔教育の盛んな国」というものがあった。人口に対して広大な土地であるから,さぞやインターネット上に様々なコンテンツが用意されているだろうと思い描いていたのである。
ところが,英国ほどにはコンテンツがわんさと用意されているという空気が感じられなかったし,学校内での活用の様子もほとんど見られなかった。つまり第一に,豪州はもともと英語圏なので,ローカルな話題は別にして,豪州独自にコンテンツを用意しなくても英国や米国のコンテンツを利用することができること。第二に,学校内での利活用が見られなかったのは,そもそも英国のようにはICTが普通教室に入ってきていないという日本と似た状況にあること。こうした現実があったように思う。
それから,遠隔教育そのものはしっかりと営まれているようだ。対応の仕方はこれも各州で異なっている。たとえば,二宮皓 編著『世界の学校』(学事出版2006.4/2500円+税)でオーストラリアを分担執筆した笹森健氏は,ニューサウスウェールズ州やクィーンズランド州といった東側のメジャーな州を取り上げており,遠隔教育についてもクィーンズランド州の「遠隔教育ブリスベンセンター」の事例を紹介している。
ウエスタンオーストラリア(WA),つまり西豪州は,Schools of Isolated and Distance Education (SIDE)という学校をつくって運営するという形を取っているようだ。遠隔授業としてCentraというオンライン学習プラットフォームを活用したインタラクティブ授業も行なっている様子。興味のある人はWebサイトを探索するといい。
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あらためて,海外視察というものは,ストレスフルなものでもあるとも感じた。他国の事情を見ることで,自分自身が見えてくる。すると「何やってるんだろう,自分…」という境地になりがちなのである。
もちろん視察先から学ぶべきことはたくさんある。そして,話を深く聞き出していけば,その国が抱える独自の問題も見えてきて,(いつものセリフ)「物事そう簡単ではない」ということが分かったりもする。
結局,自分自身が「どう生きたい」のか。最後にはその選択にかかっている,としか言えなくなっている。その上で,既存の枠組みを踏まえて,あるいは隙間を突いて,現実を変えていくことになる。問題は,日本でそのためのコンセンサスがまったく形成されていない点にある。そのための「場の形成」さえ,官僚慣行と政治の壁に阻まれて形成しづらいのは事実である。
豪州にしても英国にしても,そもそも多様な人々の集まりであるという点が合意形成への努力に繋がっているのだろう。Public Relations (PR)に対する理解の深さにも表れている。多様なパブリックに向けたリレーションの仕方に努力が払われたわけである。
一方,日本も歴史的には複数民族国家であるはずなのだが,早くから識字率が高く,江戸における手習塾の普及の高さなども功を奏してリレーションし易いパブリックが生まれた。効率という点でこれほど素晴らしい状態もないが,問題はリレーションへの努力に注意が払われないままに来てしまったこと。
現在の日本は,パブリックは多様化したうえ意識水準は低下。リレーションするための努力も上がったわけでもない。結局,そこに個人情報保護の暴走とか,企業の不祥事隠しとか,言語意識の粗雑な政治家とか,マスコミの放送内容虚偽とかの問題が起こってくるのである。要するに日本全国,知的足腰がガタガタなのである。
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安彦忠彦先生が「教育課程の見直しに参加して」という連載をこの3月号まで「現代教育科学」誌で執筆されていた。今まさに展開している中教審の教育課程部会での作業を研究者委員としての立場から報告されている興味深い連載である。その論調は普段の安彦先生のものとは異なり,かなりジャーナリスティックというか,政治と向かい合って苦しむ様を描いていた点で驚きのものだった。
規制緩和と地方分権。これが日本の現在の方向性である。そう考えると豪州の状況と似たようになるとも思える。ところが,肝心の地方には様々な問題が存在し,「教育」に対するエネルギーやリソースの注ぎ方にはすでに大きな格差が存在する。まだまだ国が手を入れなければならない箇所が多く残ってしまっているのである。
規制緩和と地方分権。これを少しばかり逆行して,それぞれの地方が教育についてしっかりとエネルギーとリソースを注ぐ体制ができるまで国が手を入れられるようにするのか,それとも地方の底力を信じて国が関わることを禁ずるのか。ソフトランディングとハードランディングのどちらが日本という国にとってよいのか,もっと議論を深めなければならない。
ただ,いずれにしても教育現場に関わる者には,信念と努力を伴った柔軟性が求められる。もっと広い視野で自分自身の教育実践を構築し展開しなければならないと思う。次代の子どもたちは,本当の意味で世界を股にかけて動き回る時代を生きていくのである。そう考えたとき,日本の教育あるいは教師を取り巻いている縛りは,あまりに狭いことは明らかなのである。そして,その縛りを乗り越えていく力を現場の先生達はすでに持っている。それもまた明らかなことなのだ。
一人一人の教師は,もっと自信を持っていい。そしてもっと努力できる環境を手に入れるべきである。いずれはその場所が日本でも豪州でもありうる時代になる。教師もまた世界を股にかけるはずなんだ。
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