「見て見ぬふり」をすることについて,昨今の私たちはあまり良いイメージを持っていない。「問題や悪事を黙って見過ごす」というような風だろうか。見て見ぬふりは,どこか後ろめたさを連れてくるのかも知れない。
ただ,私たちはこの言葉や態度の持つ上品な側面について,もっと焦点を当てるべきではないかと思う。それは「細かいことは大目に見る」とか,「相手の試行錯誤や七転八倒を余裕を持って受け止め,むしろ大局に心を馳せて場を包む」とか,「知っていることを隠して,知らぬふりをすることで生まれる出来事を楽しむユーモア」といったニュアンスのものだ。
ところが,私たちは目まぐるしい情報過多社会のなかで,こうした余裕を維持しづらくなっているのではないかと思う。特に,知的好奇心や欲求,情報消費の文脈において,「知ったことを知らずに振る舞う」ことは難しい。たとえば私がこうして駄文を書き続けている(この行為自体も別角度で論じられなければならない問題だが‥‥)中で,バランスを欠いた不適切な内容が続くようになったとき,それを知った人々は,「見て見ぬふり」をすることは出来ないのではないか。
実は,私立小学校における通知表改ざん問題などの記事を見ていて,こうした「見て見ぬふり」の問題が頭に浮かんだ。もちろんそれが事件自体の本質ではないものの‥‥。
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