情報メディア教育の分野で論議の主役に躍り出ようとしているのは、「ケータイ」こと携帯電話だ。一般の人々から見れば、何をいまさら感があるケータイだが、教育の分野における議論は驚くほど浸透していない。そして困ったことは、議論参加者もしくは対象者間における認識の格差が大きい、そういう話題であることだ。たとえば皆さんは「e-learning」というならば「ああ、聞いたことはある」という程度に認知してきていると思うが、先進的な取り組みを志す先達者たちの間では「m-learning」の可能性が模索されている。これはケータイなどのモバイル端末を教育利用で活用してしまおうという実践なのだが、まだ一般的に認知されているとはいい難い。
それにしても、実際の教育現場でケータイはとても厄介な存在である。メディアとしての可能性を見いだす立場からは、その道具性ゆえに使い方や接し方について「教育をしっかりすべき」であると論じられるものの、もたらされうる現実について詳細に検討することは少なかった。下田博次氏は『ケータイ・リテラシー』(NTT出版2004/1600円+税)で、たくさんの資料を駆使してケータイのもたらす現実を記述している。ケータイ周辺の問題点を明らかにしようとするとともに、現実的な解決策を模索している。
下田氏の本においても、結論的には、ケータイなどを代表とするIT技術が活かされた社会の中で、どのように子どもたちが生き、また私たち大人が関わっていくべきなのか、具体的に取り組むべきことは何か、を示している点で議論の大まかな方向性がこれまでのものと異なるわけではない。しかし、下田氏の論は、単にケータイというメディアの特性だけでなく、若者たちの文化や心理の領域を丁寧にたどろうというところに特徴があり、それをもって私たち大人が取り組むべきものを考えようとしている。たとえば子どもたちが大きな関心を抱く「性」文化の問題も扱っているが、こういう議論はすべての論者ができているわけではない。
それにしても私たち(一般読者)は、ケータイにまつわる言説について、光と陰を語られ、子どもや社会への接し方を考え直した上で、実践することを求められている。それはたとえば利用料金を薄く広く徴収して莫大な利益を上げるビジネスに対して、いちいち抗するといったことも含まれていると思う。小さな実践を積み重ねるという忍耐強さもまた鍛えなくてはならない世の中になってきた。それも子どもたちではなくて、日々の事柄に巻き込まれて慌ただしい大人たちが、である。
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