新入生歓迎の行事も一段落。ようやく通常授業モード。準備万端なら楽なことこの上ないが,素材集めだけして組み立てはまだというのが実情。せっかくのチャンスなので,受講生の様子も加味しながら,抜本的に見直しをした方がよさそうだ。
それにしても21世紀(平成13年・西暦2001年〜)に入って,すでに4年が経過したことを皆さんは実感されているだろうか。確か「少数計算のできない大学生」を発端にした学力論争は世紀をまたいだ出来事。そしていま再び,『中央公論』や『論座』や『世界』といった総合月刊誌上を「ゆとり教育」なるものへの批判や学力向上策の必要性を訴える論考が賑わせている。時間の経過の速さに驚くほかない。
平成10年,11年に改訂された学習指導要領。それが実施されるのは平成14年,15年であった。平成15年には学習指導要領の一部改訂が行なわれ,平成16年には学習指導要領について不断の見直しと全体見直しがスタートした。文科省が方針転換したという議論は機会ある毎に報道されるが,平成15年の改正に「総合的な学習の時間」の一層の充実が示されたにもかかわらず,平成16年の見直しの発端が国際学力調査結果への懸念と「総合的な学習の時間」への批判的見解にあったことから,その朝令暮改ぶりに誰もが混乱を意識した。
情報教育の分野に関しては,平成18年3月卒業予定の高校生から「情報」という科目を履修していることになっている。ということは,高等教育段階で行なわれる情報教育が,単なる情報機器操作の復習的な内容であっていいはずもなく,情報科目の内容そのものを高度化するのか,あるいは学術専門分野との連携のもとで特化した教育内容を追究するかを求められる。ただ,そういうのは仰々しい言葉になってしまうからうまくいかない。
そもそも「教育の情報化」自体がインフラ先行で利活用ができていないと分析指摘されている。高校毎で教科実践の実態も異なっているだろうし,ゆえに習得程度の格差が著しいということだけが現実として襲いかかってくるのだろう。どうやら,この期に及んで情報技術活用社会での生き方みたいなものを背中で示すしかないのかも知れない。もちろんそれは比喩であって,実際には授業の中で活動を考慮しながら実践するわけだけど。
悩ましいのは教育学の分野である。雑誌『論座』による2月号以来の教育関連論考の掲載傾向から見ても,再び教育改革危機の波が押し寄せてきた。毎年恒例の『現代思想』4月号(教育特集号)の今年のテーマは「教育現場の変貌」である。さらに,こうした空間とは別に,この時代に親となった人々向けの家庭教育(子育て)雑誌の模索も始まっている。『家庭教育ツーウェイ』(明治図書)へ当てつけたように「日本初」を売り文句に創刊された小学館『edu』誌や,何でも取り込む日経グループの『日経Kids+』といった新顔。雑誌『BRUTUS』が2/1号で「子供特集」を組んでみるなど,雑誌出版業界は団塊ジュニア世代が教育分野に対し抱く不安感がビジネスチャンスになるかならないかを見極めようとしている。
それと教育学に何の関係があるのかって?もちろん大ありだ。学問の器の中に閉じこもる分には,無関心でいられるかも知れないが,何かしら現実に根ざそうとするならば,この社会がなぞり書きしている下書き線がどこにあって,どこへつながっているのかを知るべきだろう。一部で言われている「環境問題とは政治問題であった」との指摘と同じロジックで「教育問題とは経済問題」あるいは「教育問題とは政治問題」であるとしたら,本当に身につけなければならない能力(あるいは学力)とは何なのか考える土台は変わってこなければならないからだ。これから教育学を学ぶであるとか,教えるとかの立場に立つ者は,そういう問題の次元について閑却できない状況に以前より追いつめられていると思う。
そんな次元と平行して,教育学や教育研究が蓄積してきた従前の様々な議論や成果も相変わらず大事と考えられている。歴史を学ぶという意味でも重要であるし,不易なものがあるのも確かだから。しかし,そういったものが立ち上がってきた時代や社会背景について思いをめぐらさなければならない部分については,現代っ子の部類に入る者同士の空間では,なかなか扱いも難しい。そもそもそうした歴史が私たちを連れて行く先は,どこなのだろうか。
飛び交う言説に(やや乱雑ではあるが)耳を澄ませ続けている。他に追随するためというよりも,事の本質や核心が何かを見定めたいからだ。人々の語る事柄が恐ろしいほどバラバラであることに改めて驚く。どこかの民間教育研究団体の代表が「親は先生に宿題を要求するのではなく,教科書通り教えることを要求すべき」と書いていると思ったら,どこかの新聞社の論説委員は「親は先生に宿題を出すよう要求すべき」と書き捨てる。そう,実践レベルでは仕方ない。そのレベルでは多様性があって当然なのだろう。でも,教育言説のレベルだというのに,一事が万事こうなのだ。多くの言説が他人の言説を踏まえない。馬鹿正直に全体をトレースしていると,こちらの気がおかしくなってくる有り様なのだ。
知的活動の結果起こる言説の散在状況を前に,西欧の人々が宗教的な信仰でもってなんとか立つ瀬を保っていたのだとすれば,なんとなく羨ましくも思う。それが日本に欠けている部分かも知れない。ただ,そのことが日本をここまで自己省察的な態度を許容する国にした理由でもあるだろう。実践面で悪くもあれば,認識面では良くもあるわけだ。
僕らの世代(団塊ジュニアと考えていただいていい)が,後世の人たちにどんな存在であったのかを述べられるとき,単にオタク文化に浸かりながらインターネットを手に入れた喜びに酔いしれたまま引きこもりつづけた人たちと言われることは,まあ仕方ないとすることにしよう。そんな側面もなくはない。ただ,後世に対して何をしたのかという文脈では,何かしらの努力や成果を残したのだと言われたい気持ちもある。そのために若い人たちに伝えるべき事がなんなのか。ごちゃごちゃした資料を眺めながら紡ぎ出すことがいま一番大事だし,それゆえ大変なエネルギーが要る。そんなことを考えていたら,準備が進まないうちに夜が更けてしまった。
「○○だから、××すべき」と人が言うとき、
「××」の内容よりも、「○○」が気になります。
○○が現実離れするほど、××が高らかに響く気がします。
それが怖い。
投稿情報: 同業者N | 2005年4 月19日 (火) 18:26