雑多なリサーチをする中で,たまにインタビューのムービー(動画ファイル)をインターネットからダウンロードしてみる機会がある。誰かが誰かに,あるテーマについてインタビューするといった内容だ。そんなインタビューのやりとりを眺めると不思議な感覚に陥る。
インタビューするのは難しい。インタビュー取材をするに当たって,ある程度相手の情報を仕入れて,知識を持っておかなくてはならない。対象者が本を書いていれば,代表的な著書は読んでおかなくてはならないし,すべての著作物を把握しておくのは当然といった考え方もある。少なくともまったく相手についてゼロ知識で会うことは滅多にない。
ところが,それでいてインタビューの内容はゼロから問うような場合がある。あらためて相手の基本情報を相手に語らせるようなことや,仕事の紹介をさせるといった演出をすることがある。インタビュー自体を見る人たちのために,それが大事な手続きになるからだ。文脈を提示しないと,肝心の議論や内容の理解が得られないこともあるからだ。
そんな基本的なことは重々承知の上で,私はインタビュー映像を見て思ってしまった。「なんで基本的で分かりきった事柄を,まるで本題のごとくに丁寧に語っているのだろうか」と。そして,自分のコミュニケーション歯車が,ひとりで空回りしていることに気づき,また気分が落ち込んでしまうのだ。
地下鉄車内でお菓子を食べ始めた女子2人に注意を促した一件にしてもそうなのだが,私はどうも頭の中でコミュニケーション・シミュレーションが勝手に展開しやすい質だ。だいたいの流れを先読みしようとして,結末のようなものを予想しているのである。そこから逆算して,いまどう対応すべきか(あるいは放っておくべきか)を決めたりする。
日常がルーチン化しているせいでもあるだろうし,研究会や勉強会に行く機会も少ないから,他者との刺激や変化に富む議論というものが日常にほとんど無いことも,先読みと結論の予測みたいなことをさせやすくしているのかも知れない。いや,もうそういう機会があろうが無かろうが,そういう癖がついちゃっているのだから困る。
だから,会議の場で話が合わない。発言を求められてしゃべっても反応がない。そのあと会議の進行がたまたま自分の発言の内容に沿って追いつくと,同じことを発言し直している自分がいる。その場の人々が認識を共有するために展開している会話のプロセスに対して,「無駄な一歩」みたいなものを感じてしまう自分がいる。そんな自分自身に落ち込んでしまうのだ。
ああ,たぶん同じことをこの駄文でもしているのだろう。いま「そんな自分自身に落ち込んでしまうのだ」と書いたが,すでにこの時点で読み手にとっては論旨の飛躍が見受けられるのかも知れない。それは「他者が自分とずれている」ことに対する落ち込みなのか,「自分が他者とずれている」ことに対する落ち込みなのか。仮にどちらにしても,それは何に落ち込んでいるのか。落ち込む必要のあることなのか。それは遠回しの皮肉なのか。ただの自慢話なのか。何がこの駄文の真意なのか。
そのような疑問が読み手には次から次へと展開するはずなのだ。もしそのことを丁寧に配慮しようとすれば,おそらく文章はさらに長たらしいものになるかも知れない。まあ,そうしないが故に「駄文」なのだが。
コミュニケーションの歯車がカラカラと一人勝手に回転している状態を,少しでも他の歯車との嚙み合わせで動かしたいけれど,そのためには普段からもっと他の人たちと接したり,研究会や勉強会の場でおしゃべりや議論をしたりする機会に顔を出さなくてはならないなと思う。職場の雑務に囚われて閉じこもっていると,そういうチャンスも逃げてしまいがち。自分の研究を立て直して,外に出る機会をたくさんつくりたいと思う。
そういえば最近,森博嗣『大学の話をしましょうか』(中公ラクレ2005/720円+税)をパラパラと読んだ。大学における研究環境の在り方について語っている部分は,「そうなんだぁ」と改めて変に感心してしまった。こういう「大学における実際の様子」について,教えてくれる人も見本になってくれる人も無いままに走ってきたからな。大学人としても研究者としても「ずれ」ている自分というのは,そういう世間知らずが大きいのかも知れない。科研費の申請っていまからでもまだ間に合うかなぁ‥‥。
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