長い時間をかけて地球の裏側に出かけた米国フロリダ州での学校視察も,無事日本に帰国したことで幕を閉じた。これから視察の内容を見直して,報告書をまとめる作業に移る。視察時間は短かったし,プライバシーの観点から記録制限されたが,おおよそのストーリーを組み立てるのに必要な情報は得られたように思う。追加質問はメールでお願いすることにしよう。
今回の視察はThinking Mapsというビジュアル・ティーチング・ツールを活用している学校を対象としたものだった。その目的は,思考力育成の取り組みを概観するためである。実際,思考力向上の成果として社会科と作文の成績が目に見えて上がっているという。そして,痛感したことは,米国と日本の「道具観」の違いだった。
Thinking Mapsというプログラムには様々なノウハウが盛り込まれてはいるが,それを使っている現場自体は一つの効果あるツール(道具)として割り切って使い倒しているだけ。もちろん必要なければ使わない。かなり単純に見れば,それだけなのだ。その割り切り方のなんと「あっさり」したことか。かつ,とても効果のあるツールとして信頼を寄せている。
日本だとこうはいかない。何か道具を使うと「楽をした」という印象が先に立ってしまう。道具としての「手軽さ」の重要性は「短小軽薄」を得意とするものづくり大国・日本なのだから理解しているはずだが,こと教育界では「苦労なくして成果なし」みたいなスポ根観が支配しており,道具の活用が不自然なくらい下手なのだ。
だから『ドラゴン桜』が受けるのかも知れない。巨人の金満体質が嫌いだという人が多いのも似たようなものか。スポ根の定番は『巨人の星』だから,なおさらそうなのかも知れない。いずれにしても,日本人は「血も涙も人情もない」ような道具的な在り方に,ある種の違和感や抵抗感を表わす傾向がないだろうか。もちろん印象論である。
こうした印象を持つのは,学校の情報化という文脈でも,そう感じる要素があるからだ。日本人特有の道具観みたいなものが,導入にしても活用にしても,いろいろ影響を与えているような気がある。
ここで書いている日本人の道具観は(1)「道具を使うこと(楽すること)への後ろめたさ」だけではなく,(2)「道具の神聖さを重視する」ということも含んでいる。この2つの道具観が場面場面で都合良く又は都合悪く顔を出すおかげで,学校の情報化の鈍さや学校という「研究機関」の劣悪環境を維持しているのである。
経済産業省系列に属する「情報処理推進機構(IPA)」が『学校にオープンソースコンピュータを導入しよう!』(アスキー2005.10/500円+税)という冊子を発行したのも,教育界(文部科学省系列)の情報化推進動向のもたつきに業を煮やして出されたようにさえ見えてくる。「とにかく道具は何でもいいから使っちゃおうよ」との呼びかけとして。
思うに,教員免許状の更新問題,教員養成課程の改革,教職大学院の設置なんかにエネルギーやリソースを注ぐようなアプローチはまったく見当違いかも知れない。どんなに質の良い教員を養成し,質の良い教員を維持する仕組みを作っても,劣悪な教育研究環境でできることには限界がある。
給与の問題ではない。教員としての使命を満たすのに必要なのは個々人への給与よりも,職業使命を達成するための環境作りではないだろうか。研修のメニューを豊富にするとか内容を充実させるという発想も,単に研修に追われて疲れてしまうなら意味はない。研修で学んだことを実現するリソースを得られる環境整備である。
文部科学省は,そういう条件整備にかなり尽力している。問題は都道府県や市町村の教育委員会や事務所レベルで,そういう条件整備に理解がないことだ。「理解」という単語も無いかも知れない。そういう世界があることを「知らない」のだろうし,知らなくても仕事が回っていくのである。しわ寄せは全部現場。
日本の子どもたちの学力低下の原因が何にあるかを戯画的に特定すれば,学校でも先生でも,まして文部科学省でもなくて,都道府県・市町村レベルの教育行政関係者の怠慢にあると言っていいかも知れない。「おまえたちが犯人だ!」みたいな。逆に言えば,希望の光もまたそこにある。義務教育費国庫負担削減なんて寝ぼけたこと言っていないで,国からもらえるお金をもらえるだけもらって立派な教育環境設計をしてくれれば,どれだけ効果的か。
道具観一つで,なにやら過激になってしまったが,要するに日本の教育問題は「悪い癖」を直すことと同じくらいに難しいけれど,実は意外と簡単なことなのではないだろうかと思ってしまったのである。
ただし,もちろん話がそう簡単に終わるわけもなく,彼の国へ出かけて感じたことは他にもあって,根強く下支えしている宗教観みたいなものや,アメリカ・アズ・NO.1というスケール観みたいなところにも深く関係してくると思ったのである。そんなわけで,この辺の問題は,またまた今後の課題ということで宿題にしよう。
最近、様々なところで日本の「ものづくり」の強化が叫ばれているようです。2007年問題に代表される団塊の世代の大量退職によりそれまで培ったノウハウ消失の危機感を産業界がもっているとの背景によるものらしい。
ここで、いう「もの」とはいったい何なのだろう?
立ち止まって考えると「もの」は「物」(物質;material)という意味と「者」(人;person)と意味が浮かんでくる。日本人はなぜ物質も人も「もの」と呼ぶのか?欧米の思考では絶対に対立概念だと思うのに。
真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」に載っている話だと「もののふ(武士)」「もののぐ(武器)」「もののけ(精霊)」などの日本の古話から、「もの=鉄」という結論を導き出している。鉄に宿るスピリチュアルなものを含めた「もの」というのが古語なのだと。
それでは「鉄に宿るもの」とは一体何なのだろう?それは鉄の材料強度なのだと思われる。鉄(正確には鋼だが)は熱処理をすることで増幅できる材料強度幅は、現在開発されてきた新素材すべてと比較しても圧倒的に大きい。この強度が宿る鉄の性質がスピリチュアルな「もの」の正体では
ないだろうか。古代において最高の強度をもつ材料は強烈な存在感があったに違いない。
そういえば、精神的な訓練の重要性を「鉄は熱いうちに打て」というがこのような思考の残照とも思える。こうかんがえると、2007年がきてから「ものづくり」を騒いでも仕方がないのかもしれない。経験をもったものが、若手を指導できる時間が必要だからだ。「もの」とは「ものづくり」をするうえでの心構えや視座、それらを突詰めたところに現れる執念と諦念などを体得させる精神的なもので、そういった瞬時にダウンロード出来ないデータへのもどかしさから卒業した先に、尊厳を認めることで初めて自覚されるものではないだろうか。
投稿情報: 万俵鉄平 | 2007年3 月23日 (金) 23:39