生まれて初めて退職金というものをもらう。今日の現実はどうあれ,僕らの世代として「退職金」というのは,一生に一度,自分が定年退職などしたときにもらうものだとイメージしていたのだが,まさか自分がこの歳にして1回目をもらうとは思わなかった。(2回目あるのか知らないけど…)
いまでも初任給の嬉しさは覚えているし,毎月もらうお給料とこのご時世にあるだけ有り難い賞与をもらう度,私自身がそれに見合う仕事をしているのか自問自答していたことを思い出す。努力の数値化ほど人の心を振り回すものはない。それが「円」に単位変換されれば,豊かさをもたらす場合もあれば,争いを連れてくる原因にもなる。そこで平常心を保つには,かなりエネルギーが必要になる。
下世話な話をすれば,退職金の金額が大したものじゃないことは,もう何年も前から予想はしていた。だから私は自分の努力が微分されて雲散霧消する前に,別の形として職場に残るように努力を積み重ねることにした。それがこの5年くらいの私の行動だった。職場の情報環境を整え,学生や教職員をサポートする設備と人材を提供すること。風当たりも強くて,評価されるどころか小言を言われることも多かった。
けれども,たぶん退職金なんて軽く凌ぐ価値のある部署と業務を提供できたと思っている。私を助けるために集ってくれた人たちは,学生想いで,しっかりとした自分のポリシーを持って仕事をしてくれる人たちばかりだった。もっとお給料をあげたかったのだが,私は自分のもてるノウハウを惜しみなく伝えることで,それに代えることにした。仕事を通してスキルアップすることで,その人の技能資産が増せば,次の職場の選択肢も広がる。働くということは,給与以外にもそういう報酬があるべきだと思う。それは自ずと本来の目的である学生や教職員への充実したサポートに繋がる。
どこまでも自己満足の域を出てはいないが,私は自分の退職価値をそういうところに置いてみた。風の噂には,今年度も学生達の利用度が高く,サポート部署として定着しているようだ。嬉しいことではないか。
自分の人生をどう描くのか,どんな風に価値を見出していくのか。その方程式はますます複雑化していくようにも見える。たくさんの項目を並べて,変数の重み付けをし,ロジックを組んで,算出した結果に,そもそもどんな信憑性があるのかということを考え直してみる必要がある。確かに過去の経験の集積は,何がしか確かな指標を提出してくれるのかも知れないが,それを超えて何か違った価値観とイノベーションを信じ,努力を積分していくことに自分を開いていくことも必要だと思う。
それでも人はお金で動くもの。そういう考え方もある。私だって,しばらくこの退職金で生き延びないといけないもんね。でも,焦りは禁物。私の場合は,自己研鑽を抜きにしては成り立たない人生でもあるので,この機会にいろんな経験を通して勉強させてもらいたいと考えている。そのための資金としてなら,これでも,まあ,何とかなるかな…何とかするか。
どなたかが言っていましたが,仕事に上中下があるとすれば金を残す仕事は下,物を残す仕事は中,人を残す仕事は上でとても価値あることだそうです。そういう意味では教育とはやりがいがある仕事なのでしょうね。
投稿情報: Gorotsuky | 2006年5 月11日 (木) 20:05