お盆時期の日曜日。人々が帰省する中,課題に取組むため大学に出かけた。東京大学のある本郷三丁目周辺も,日曜日の上にお盆なので,いつもより静かな雰囲気を帯びていた。しかも清々しい青空だ。
大学内も人がいないわけではないけれど,蝉の大合唱を除けば,騒がしさもなく,穏やかな時間が流れていた。そういう雰囲気だと課題にも落ち着いて取り組める。これが毎日続くといいのに…。
中央図書館へ図書探し。研究室の自転車を借りて,シャーッとキャンパスを駆け抜ける。これもまた青空の下,気持ちがいい。必要な文献を借り,昼食を買い込み,また研究室に戻る。
先生や同級生がポツポツとやって来て,適度に人の存在も感じつつ(誰も居ないは居ないで寂しい…),しばらくしたらみんな帰ってしまったので,また独りで文献を読んでいる。途中,先生に質問できたのはよかった。
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何を読んでるかといえば,ヴィゴツキー関連の本である。レフ・セミョノビッチ・ヴィゴツキー。ソビエトの(いまは「ロシアの」と表記すべきだろうけれど…)の心理学者で,世界的に影響を与えた研究をした人物である。彼の主著『思考と言語』を日本語訳したのは,日本の教育学界の重鎮の一人である柴田義松先生である。
教育原理の講義を受けた私たちの頭の中は「(ヴィゴツキー=発達の最近接領域)→柴田義松先生」という図式がしっかり刷り込まれている。しかし,悲しいことにヴィゴツキーに関する知識はここ止まり。それこそ「発達の最近接領域」という概念の内容すら,「出来ないところから出来るところへとステップアップする過程におけるギャップのこと」という漠然とした認識でしかなかった。これは正しい説明になっていないらしい。
いやはや,そもそも私たちにとって「ソビエトの」心理学者という響きが,どんなものであったのか,当時を思い出していただきたいのだが,とにかくソビエト連邦というのは閉鎖的な国で,そこに抱いた怪しさたるや,いまでこそ戯画的すぎて笑ってしまうのだが,当時は本当に「一度いったら戻って来られない場所」という怖さがあったのである。
それもこれも冷戦下におけるアメリカとの対立や,007スパイ映画とか,「シベリア抑留」といった言葉とかから受ける操作されたイメージだったわけだ。だから「ソビエト教育学」なんて言葉を聞くと,触らぬ神にたたりなし,ソ連語なんてよくわからないし…さよなら〜,って感じで敬遠していた。
けれども,それを丹念に研究している先生たちがいた。柴田義松先生など,ソビエト教育学のもつ可能性をしっかり理解していた人たちは,僕らお子ちゃまがスパイ映画で「悪者・ソ連」を刷り込まれているのを苦々しく…思っていたのかよくわからないが…,とにかく真面目に原著を翻訳して,日本における研究の土台をつくってくれていた。
とはいえ当時,ソビエト教育学が話題にされる機会は少なかったし,柴田先生も,本当はとても優しい先生なのだが,話すまでは近づき難い方だったので,やっぱりなかなか距離が縮まらなかった。これはもう時代のせいである(と勝手に責任転嫁してしまおう^_^;)。
90年代にソビエト連邦が崩壊し,小国が離散した。あのソ連に対する戯画的なイメージが薄れ,ロシアという呼び名が耳慣れるようになって久しい頃,幸運にも再度ヴィゴツキーに触れるチャンスがめぐってきた。
近年ではユーリア・エンゲストロームによる「活動理論」の提唱と山住勝広氏による日本への積極的な導入によって,その理論的源流ともいえるヴィゴツキーの研究も注目を集め出した(ただし中村氏によればヴィゴツキーの理論は活動理論ではないという)。
さらにヴィゴツキーを扱う研究者である中村和夫氏や神谷栄司氏の議論も日本のヴィゴツキー研究を発展させていこうとオープンに展開している(ヴィゴツキー理論をどのように捉え直していくかで,なかなか刺激的な展開があるようだ)。
柴田先生自身もまだまだご健在で,『思考と言語』は今世紀に入って新訳版が出されたし,入門新書も書かれている。
まあ,ロシア語がちんぷんかんぷんなので,こうした先生方の成果に頼らざるを得ない。むかし敬遠してしまった後ろめたさを解消するためにも,あれこれ読んでみたいと思う。
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ちなみに,ヴィゴツキーに関する参考文献としては,
柴田義松『ヴィゴツキー入門』寺子屋新書(子どもの未来社2006.3/800円+税)
中村和夫『ヴィゴーツキー心理学 完全読本』(新読書社2004.12/1200円+税)
が初めて読むには手頃な感じである。
あれこれ平行して読んでいるので,実はこの2冊を読み切れていないが,「発達の最近接領域」のことも含めて,後日また書いてみたいと思う。
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