日本の教育に対する日本人自身のコンセンサスが大きく欠けている。この欠如によって,教育改革は迷走状態を続けているし,学校現場は落ち着かないし,教師は振り回されているし,保護者は不信感を募らせ続けている。
たとえば書店には,藤田英典氏による『義務教育を問いなおす』(ちくま新書2005/900円+税)が出回っているが,この意気込みを詰め込んだ分厚い新書が,どれだけの当事者の手に届けられたのだろう。恥ずかしながら,私も中身を読み込めていない。いやしかし,藤田氏は同様な主張を8年前と5年前にも充実した内容で上梓している。ところが,日本の教育議論がそれらをベースに進展してきたなんて話は露とも聞いたことがない。
日本で賑やかなのは,今夜も「NEWS23」で特集されていたが,北欧のどこぞの国の教育がどうだこうだの土産話。『ヨミウリウィークリー』9/25号は,特集「「学力低下」の真犯人」で,保護者世代が学校教育を受けた1970年代と今日を比較すれば教育への不安や不信は当然だろうとして,意識調査の結果において社会格差容認派と否定派の捉え方に差異があることを紹介している。「AERA」9/19号のトップ記事は「ドラゴン桜」のお話といった有様。
議論の材料を提示したり,得ようとすることは大事なことではあるが,この代わり映えのしない方法論の神通力は,とうの昔に解体している。そのおかげで今日の混沌状態なのだから。
もちろん「誰が悪い」という真犯人探しの決定版をしようというわけではない。この場合,コンセンサスを得られないのは「誰のせいでもない」という事実だけが先にある。いやもうだって,この繁忙の日々において,お給料をもらっているところの出来事に意識を割くのでも精一杯。平日は朝から晩まで仕事して,週末には休日出勤で残務を消化するような社会生活のどこに教育のコンセンサスを形成しようと意気込む余裕を見つけられる?
隂山英男氏が『学力の新しいルール』(文藝春秋2005/1143円+税)で再度持論を展開している。また,先に上梓された藤原和博氏の『公教育の未来』(ベネッセコーポレーション2005/1400円+税)でも日本の教育の変化について考察がなされている。どちらも70年代もしくは80年代初頭に起こった社会や経済状況の変化が教育にも大きく影響したことを重要視している。目新しい指摘ではないかもしれないが,現場で活躍する人たちによる共通認識として改めて傾聴すべきだろう。
(ところで,隂山氏の本には,佐藤学氏が『世界』に書いた論考に対する反論が述べられている。当該論考自体は別の論点を重視していたために少々「百ます計算」に対する隂山氏の取組みを粗雑に扱い過ぎたのかもしれない。そもそも佐藤氏が「百ます」を「百マス」と表記した時点で,読者裁量において該当部分を閑却しておくべきだろう。「教育らくがき」をお読み続けていただいている皆さんなら,この微妙にして重大な違いをよくご存知のはずである。)
私がここで確認しておきたいのは,社会変動に振り回された結果が今日の教育の荒廃の原因である,というような短絡的な原因究明ではない。むしろ,このチャカチャカしたような落ち着かない社会生活の中で,ポジティブな方向性でもって教育に関するコンセンサスを形成するための効果のある方法を採らなくてはならないということだ。
冒頭でご紹介した藤田氏の新書は,新書としてはなかなか分厚くて,文字もびっしり。伝えたいことがたくさんあるのはわかるし,どれも大事なことだとは思うのだが,これを誰に読ませたいのか。書誌学的には,まったくもって殿様的な本作りである。これでは「読みたいやつだけ,読みこなせる奴だけ読め」と言っているに等しい。部数よりも,内容の浸透度が高まって欲しいものである。
それゆえ,私自身が取組みたいと思っているものは,教育における情報のデザイン。少しずつではあるが,知見を積み重ねなければならない。
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